栃木の例幣使街道とぶどう通り

6月11日に栃木市を自転車で回る中で気になった道が2つありました。一つは例幣使(れいへいし)街道、もう一つはぶどう通りです。例幣使街道は、徳川幕府時代に、4月の家康の命日に京都の朝廷からの日光東照宮への幣帛(へいさつ)と呼ばれるお供えを奉献する公卿一行が毎年通った街道です。例幣使は1646年から江戸時代が終わる1867年まで221回も毎年通ったそうです。例幣使街道は、倉賀野(現在群馬県高崎市)から佐野、栃木を経由して楡木(栃木県鹿沼市)を結ぶ街道で、例幣使は、京都から中山道、例幣使街道、そして日光西街道(鹿沼と日光を結ぶ杉並木街道)の約600キロを15日間で移動したそうです。すごい体力ですね。ただこの例幣使一行は素行が悪かったようで、公卿は乗っている駕籠をわざとゆすり、街道の人々から金品を要求するので、途中の民家では例幣使がやってくると雨戸を閉めてしまい、宿場は「昵懇金」(じっこんきん)を用意して対処したそうです。これが、「強請る」(ゆする)の語源となっているそうです。さらに一行は、復路で江戸に立寄ると、日光から持ち帰った切り刻んだ前年の幣帛を江戸住まいの諸大名に送りつけ、金品を要求したそうです。また例幣使一行は京都の大商舗の荷物を、お金を取って運んだそうです。京都の大商舗は江戸に出店を持っていましたから、例幣使は京都までの帰路は江戸を経由し、京都から江戸、江戸から京都といった流通を請け負ったようです。運搬に必要な人足の約400名、馬の約30頭は、街道沿いの人たちが無償で提供するような公費出張だったため、例幣使はこうした流通で莫大なお金を毎年手にしたことになります。221回も毎年続いたのはこうした役得があったためとわかりました。さて、栃木市は例幣使が毎年立寄ることで、江戸時代に宿場町として発展しましたが、江戸末期に、水戸の藩士の天狗党の放火で、町屋の200軒以上が焼失してしまいました。焼け残った蔵や、焼失後に新たに作られた蔵が現在の蔵の街の目玉となっています。

さてもう一つの道は、桜の名所として有名な大平山(おおひらやま)の南斜面にひろがるぶどう団地の「ぶどう通り」で、栃木市大平町西山田の広域農道です。この通りに沿って約70のぶどう農園があるそうで、北関東では最大のぶどう産地です。露地物は9月からですが、訪れたこの日はハウス物のぶどうはすでに店頭に並んでいました。特に小粒の巨峰はとても甘く感じました。露地ぶどうの季節にもう一度栃木市を訪れてみたいと思います。

Write a comment

Comments: 0