グラバーと奥日光

長崎の旧グラバー亭が「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして世界遺産への登録が勧告され、長崎の現地は多くの人で賑わっているようです。イギリスの武器商人だったグラバーは統幕派を支援したことで明治維新に貢献したことは多くの日本人が知るところですが、彼が晩年で奥日光と深く関わっていたことはあまり知られていません。明治時代になり、グラバーが岩崎弥太郎が創設した三菱と関係を深めたことは三菱グループの社史の中に詳しく記されていますので省略しますが、石炭の国際取引やキリンビールの前身のジャパン・ブルワリーの設立などビジネスマンとして、グラバーは手腕を発揮しました。グラバーがビジネスを離れてからの晩年は釣り三昧に没頭していたようで、長崎で出会った薩長南藩の大島藤三郎との親交がきっかけで中禅寺湖l湖畔の日光二荒山神社の近くの大崎に別荘を作り、もともとは魚が住んでいなかった戦場ヶ原の湯川に鱒を放流するほどの釣りキチだったそうです。彼のその釣りキチぶりは宮城鮭介氏の電子書籍の「鱒釣りは馬車にのって」に詳細に紹介されています。現在クリンソウが群生している千手ヶ浜一帯は、グラバーのお気に入りの釣り場だったようです。幕末から明治にの動乱を生き抜いた当時のグラバーは、釣りとともに千手ヶ浜のクリンソウにも癒されていたのではないでしょうか。グラバーが明治44年に没した後は、グラバーの別荘は、イギリス人のハンターが譲り受け、東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部のクラブハウスに作り替えられ、西六番館と呼ばれて当時の東京在住の外国人の社交場所として賑わったそうです。


千手ヶ浜のクリンソウの群生地の場所は民有地で、東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部の千手ヶ浜の小屋の管理人だった伊藤乙次郎氏が退職金の代わりに仙人庵と呼ばれた釣り小屋とこの敷地を所有していますが、仙人庵は2013年7月に小屋を焼失してしまいました。2015年に新しい仙人庵が再建されましたので写真を撮ってきました。これからもクリンソウの時期には敷地内のクリンソウを見学をさせていただければと思います。


グラバーの足跡をたどるべく、グラバーの別荘があった中禅寺湖湖畔の西六番館跡地に立寄りました。西六番館も昭和15年に焼失して、現在は当時の暖炉のみが残っていますが、敷地の中の構成は長崎のグラバー亭のように敷地が何段かに分けられ、中禅寺湖がよく見えるようになっていて、広い敷地に驚きました。近くでは大きな鱒が釣り上げられていましたが、これもグラバーが放流した鱒の子孫かも?