見沼田んぼの歴史

市民の森の入り口の観光案内の見沼の姿の変遷の図をパチリしました。この図は見沼田んぼのサイクリングの途中でよく見かけますが、図の色があせずにきれいな状態でしたので、ご紹介します。

空からの俯瞰の図は、イメージとしては、武蔵野線の東浦和駅付近の見沼通船掘から北に向かって見た図になっています。縄文時代に東京湾の海水が入る入り江だったとはちょっと驚きです。


1628年の江戸時代初期までは、当時の荒川は見沼の北側(現在の元荒川)を流れていました。1629年に荒川の上流の熊谷付近で、荒川の流れを入間川に合流させる治水事業が行われました。


見沼の湿原の狭い部分を仕切って造られた堤防は、八丁堤と呼ばれ、熊谷の流路切り替えを指揮した伊奈半十郎忠治は、この八丁堤の工事も指揮しました。しかしこの八丁堤は結果として上流側の水害を引き起こし事業としては失敗でした。


紀州藩主だった8代将軍吉宗は、紀州出身の為永に見沼の灌漑のための土木事業を託しました。紀州流の灌漑とは従来の水を溜める方式ではなく、用水路から直接水を田畑に供給する方式でした。為永が利根川から引いた60キロの見沼代用水路はおおよそ150平方キロの灌漑面積となり、年貢米の増産に大いに役立ちました。

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